平成31年度・令和元年度送辞答辞特別号
礒部達也兄
卒業式を開くことができないですが、会員全員の「ココロの中」での御卒業おめでとうございます。
礒部兄へ感謝の意を述べさせていただく事を心より嬉しく思います。
送辞のリクエストは「執行部LINEの中でちょこっと指名」されましたので礒部兄が冷や汗をかかない程度に伝えます。
礒部兄は平成28年に入会されました。兄との関わりは、雨宮年度、根津総務委員会、三役として互いに意見を交わし、杯も何度も交わし合いました。今思えば、根津委員長は酒の神様と言いながら兄が一番酒の神様だと思います。「だって」そうこの言葉は、兄が頻繁に発する言葉です。「だってさぁ~平島さんが飲みたそうにしているんだもん」といつも誰かの所為にしていましたね。私も兄に負けないように参加し、酒の美味しさ、もそうですが吞みニュケーションのすばらしさ大切さを伝授して頂きました。そして、今年度は副会長としてお願いしたところ即答「はい、やります」と言ってくださり役員人選がスムーズに進むと思っていましたが谷あり谷ありの連続で私はかなり落ち込みました。ですが救いの言葉は、いつも兄からでした「飲みに行って考えよう」酒の場に解決方法があるとは思えないが会話することが新たな道へと進める勇気を与えてくださったと思います。更に伝授してくださった事は「会長はね、誘われたらどこでも行かないとダメだよ」の言葉を後押しに、やったことのないことに挑戦する勇気を与えてもらいゴルフを経験することができました。4度、一緒に参加しましたが都度、反省会とこじつけての呑みニュケーション。そんな優しい兄も時には鬼となり、執行部会議で資料を丸め、ぶつぶつつぶやき早めの撤収、唯一あの時だけ呑みニュケーションせず、長電話し合いましたね。
兄の尊敬するところは、拡大を常に意識し続け言動して頂いたことです。会の活動は人が常に作らなければならない、人が入ってこなければできることもできなくなる。新しい人が入って、どのように化学反応するか、入ってみなければわからないと、拡大に対しての意識・姿勢は1番だと思います。兄は青工会のことが人一倍「好き」なんだと思います。あまり好きでもないところに誰も入れようとは思わない、自分自身が好きでなければ相手にも伝わらない。青工会を好きでいていただき本当に感謝しています。生涯、青工会を好きでい続けていただきたい。そして、富士山へ一緒に登ったので今度は北岳に登り、山頂近くの山小屋で杯を交わしましょう。
礒部イズムを引き継ぎ、私も会の為に更に邁進します。
これから先も互いに研鑽し合い磨き合いましょう。
本当にありがとうございました。
結果的にはコロナウィルスの影響でこのような事態になってしまいましたが、今日まで準備をすすめていただきました、山寺会長を率いる執行部の皆様、また中西副委員長をはじめとする総務委員会の皆様本当にありがとうございました。特に山寺会長に置かれましては、未曽有の事態の中会員の健康を一番に考え行動していただき、苦渋の決断であったと思いますが、この状況での最高の卒業のお祝いをしていただきまして本当にありがとうございました。
私は(社)甲府青年会議所から入会いたしました。皆さんも私のことを(社)甲府青年会議所の礒部という覚え方をしたのではないかと思います。私自身も複雑の考えのもと入会いたしました。もちろん会の目指す理念は違います。ただせっかく入会させていただくのだから自分で何を学び、また何をお伝えすれば山梨青年工業会の発展に寄与できるのか考えながらの入会でした。そして最後の年に自己研鑽委員会の担当をさせていただき山梨青年工業会の現状がよく見えたと思います。会員の皆様はなぜ山梨青年工業会に入会したのでしょうか?どんな思いを持ち入会したのでしょうか?なんのために皆さんは大切なお金と時間を使い活動をしているのでしょうか?たまには入会申込書を見返してみるのも良いのではないでしょうか?皆さんは山梨青年工業会が好きですか?前文で書いた疑問の答えを皆で考えて足並みそろえて活動したらもっともっと自己研鑽ができる会になると思います。
最後になりますが本年度、私がこの会で一番尊敬できる山寺悠太にお声がけをいただき、ともに会員の皆様のことを考え活動できたこと、本当にうれしく思っております。また多くの皆様と意見を交わしあい、良くお酒ものみました。本当に短い在籍期間ではありましたが、楽しく意味のある活動できましたのは皆様のおかげだと思っております。皆様本当にありがとうございました。
山岸久美姉
山岸姉、ご卒業おめでとうございます。
あなたとの出会いは、青工会45周年向山史郎会長時代に7月に行われたものづくりフェスティバルに出展者としてご参加をいただき、その後8月例会へオブザーバーとしてご参加いただいた時だと言いたいのですが、、、
当時私は拡大を担っている田代委員長の担当として今のように青工会活動に励んでいたので?? 7月・8月と山岸姉にお会いすることもなく9月に新入会員予定者としての姉に青工会の説明をさせていただいたのが最初の出会いでした。イオン近くのCOCO’Sでお会いしたのですが、その時もガチガチに緊張した姉の姿が印象的でした。私の話は真剣に聞いてくれているのは伝わりましたが、姉の話す内容は、宮澤さんが、良治君がと宮澤会員をべた褒めした言葉だけだった様に記憶しています。
わたしと山岸姉の一番の思い出は、去年の委員長と会長としての1年半の期間ですね。正式な委員長オファーは10月でしたが、実はその前の9月AIJ合同例会で次年度会長紹介を終えて緊張から解放された私は隣の席にいた山岸姉に「来年委員長してよ」と軽い気持ちで一言発したら、これから合同例会懇親会の司会を控え緊張マックスの姉から「自分だけ役割が終わったからって」と顔つきが変わり怒られましたね。
その件があり、10月に正式オファーするときは正直迷いました。面倒臭い事になるのではないかと、ですが人一倍真面目で懸命に青工会活動に取り組んでいる姉に委員長をやって頂きたいと思い、委員長のお願いをさせて貰いました。思いの外、姉は悩むこともなく二つ返事で経営委員会委員長を受けて頂きましたが、その後に担当は宮澤さんが良治君がと、まさかの後出しジャンケン的な条件指定!!
委員長時代は大変苦労されたと思います。委員長を受けたことを何度も後悔されたのではないですか?
人一倍真面目で、緊張しやすい姉は、上程や委員会の度にプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも懸命にもがいてくれました。沢山努力していただきました。
スタートしてすぐに宮澤のミの字も聞かなくなりましたが(笑)1年終わった後に、「辛くて苦しい時が多かったけど、委員長やれて良かった」言っていたもらえたときは私も凄く嬉しかったです。
山岸姉に取っての事業承継はこれからですね。
5年間の青工会活動、全力で走り切り、自己研鑽、自己成長出来ましたか?
新しい景色はたくさん見られましたか?
今後の山岸姉の人生に青工会での5年間が大きなものとなって頂けたら嬉しいです。これからも原会議をはじめ多くの機会で繋がっていきますので、これからもよろしくお願いします。
あらためてご卒業おめでとうございます。
山岸姉、ご卒業おめでとうございます。
センチメンタルな気持ちを押し殺し、涙で霞む目を拭いながら、パソコンに向かいこの送辞を書いています。
本来であれば私と中島さんのギクシャクした掛け合いで送辞を読ませて頂くはずでしたが、文章での送辞という事で、お互い山岸姉との思い出を書こうという事になりました。
文章では上手く伝わらない事もあるかもしれません。失礼も多々あるかと思いますが、大きな心で読んで頂けると幸いです。
私と山岸姉のファーストタッチはミャンマー視察研修でしたね。
まだ入会して半年程度にも関わらず、また女性は一人だけの状況の中、積極的に参加した姉は流石でした。
行きの成田空港までの道のりは同じ車でしたね。物凄くテンションが高かった姉を昨日の事のように覚えています。その中で姉に新たなあだ名がつきましたね。覚えていますか?
「女高田純次」適当な事ばっかり言っていましたね。
事件も起きました。それは私が言った一言。「山岸さんの事は女性と思ってないから」
私は女という目で見るのでは無く、性別を超えた仲間である、という事を伝えたかったのですが、真意が伝わらずその後はずっと不機嫌でしたね(笑)マジで怒っていましたもんね。
そんなスタートだった視察研修。こんな事もありましたね。
それはミャンマーにある北朝鮮レストランで食事をした後、現地の日系法人の社長様に急遽連れて行かれたお店での出来事。
広いフロアに案内をされ、我々が座った席の隣には指名を待っている多くの女性たちが居ましたね。皆我こそはとアピールしてくる中、ふと見たことがある顔だと思ったら山岸姉もその中にいて大笑い。あの時の姉の顔は今でも夢に出てきそうです。
本当に楽しく濃厚な時間で、全てを書きだしたらとても時間が足りません。想い出話の続きは、近いうちに合って話をしましょうね。姉との最高の思い出を作ることが出来、本当にうれしく思っています。話は変わって青工会の委員会活動での思い出のお話。
前田委員長の下、姉が副委員長をやっていた時に同じ委員会でした。大概の委員会は姉の会社で行いました。時には2階で卓球をした時もありましたね。会社の奥で姉のお父様が社員さんを叱責している場面があり、姉がフォローに行っている時もありました。
前田委員長の天才的な考えが理解できず、長田副委員長にグチグチ言っていたのもよく覚えています。委員会が終わった後も遅くまで二人で残ってイチャイチャしていた様なので、このまま二人が結婚すれば良いのにとも思ったくらいでした(笑)
姉は本当に気配りの人でした。大きな愛のある人です。そんな姉と中身の濃い委員会活動を共にする事が出来た私は幸せ者です。
そんな姉とも青工会ではお別れの時が来てしまいました。でも大丈夫。なぜなら私は卒業後も定期的に姉と会う機会を持っているからです。時には石和の公民館で。時には大里のレトロハウスで。
いつか姉の嵐部屋を見られる日が来ることをを楽しみにしています。
いつも生意気ばっかりいってすいません。いつも優しくしてくれてありがとう。そしてこれからもよろしく。
山岸姉、ご卒業おめでとうございます!!!
澄み渡る青い空このようなお天気の中本日、卒業を迎える事ができ清々しい気持ちでいっぱいです。
卒業式の企画運営に関わっていただきました皆様、ありがとうございます。
そして、ご多忙の中ご参加していただきました多くの皆様ありがとうございます。そうこの答辞は昨年末から構想を立て始めて、書き始めた原稿になります。
晴れ女な私の門出はきっと晴天だろうと希望を持っていました。私が山梨青年工業会の皆様に出会ったのは、約4年前向山史朗会長が45周年記念「ものづくりフェスティバル」で出展者側として参加させていただいた事でした。
同じ世代の若手経営者の皆様が企画運営している様子を事前説明会や当日の運営で拝見させていただきましたが、私とは無関係の皆様であり素晴らしい方たちの集まりだな~と他人ごとでした。
色々な催事に出店してきた中、ものづくりフェスティバルの反響が凄まじく驚きの連発でもありました。ルールやスケジュールのある中、私はやりたい放題でした。
弊社ブース担当者午前の部、祐次郎さん、中川さんごめんね。午後の部大作、ありがとう。
今でも脳裏にしっかりと焼き付いています。
そのあとの懇親会には、出展者サイドは私のみの参加で、気さくに話しかけてくれた原田さんの事を昨日のことのように覚えています。優しかったねっ!ありがとう。
それから1か月間例会・委員会をオブザーバーとして参加させていただく運びとなりました。
今日こそは感じよくお断りしよう!と心に決めて参加させていただいておりましたが、スポンサーでもあります宮澤さんの抜群のフォローに心ぐらぐらしていました。
運命のいたずらなのか?当時溺愛していた愛犬さくらの死!との引き換えに青工会の皆様との出会いに悲しみに明け暮れている時間を忘れさせていただきました。
青工会では、当時会ったこともなかった憧れの土橋社長との出会い、中学の同級生でもあります同期入会の礒部さん、同じ高校の根津さん、人との縁も感じさせていただきました。
ものづくり委員会→2年連続経営委員会→今年度総務委員会
今日にいたります。
委員会活動におきまして、その都度本気で悩んで、本気で笑って、本気で泣いて、本気で青工会に向き合って活動してきました。
夢中だったからこそ、何気ない事で傷ついてためらいながら何度も立ち上がった。
悔しくて情けない時もあったけど、過ぎ行く時の中で無駄な事は何1つとしてありませんでした。
常に誰かが支えてくれて一緒にいてくれて、優しさに救われました。短い期間の中やり切りました。
ありがとうございました!!!!!卒業を迎える私たち卒業生にとって一緒に活動してきた仲間との別れは辛いものです。
「知らない、出来ない、やらない、分からない」私に、挑戦することの楽しさを教えてくれた青工会です。
私が大好きな嵐の曲「Make a wish」から一部分紹介させていただきます。
「本音・建て前使い分けて、見栄を張って乗り切ることも、世間体も噂も味方につけて勝負するのさ、一か八かのハイリターンやこじつけ、時に必要、ブレない気持ち忘れなければ全てはオッケー!
予想外の展開も結末へと繋げるだけ、楽ばかりじゃつまらないさ、紆余曲折なんて当然だろう♬~
ほら道なき道も踏み出せば、新しいキセキ作れるから、迷う暇はない、最後にはきっと笑うさBelieve in your smile (^▽^)/」
困難に立ち向かい、苦しみを越えた時の達成感・充実感を味わうことが出来たことは、青工会で役職をいただいた時でした。
皆それぞれ仕事で時間を作れない、やれないとは思いますが、心の中の道標をたより、Only oneの辿りつける場所へ一歩ずつ進んでいってください。
ご縁を大切に与えていただいたチャンスに臆さず、是非チャレンジしていただきたいです。そして、最後に今年度総務委員会に所属して、担当を始め両副委員長が戸惑いながらも前に進めていく様子を近くで見ていました。会長職まで経験しているにも関わらず偉そうにしない委員長風向山さん・入会間もなくベテラン感満載の委員長風中西さんの2人が目を細め、にこやかだったからこそ総務委員会のメンバーは安心してのびのびと協力し合い、和やかに委員会活動に取り組むことが出来ました。そして、3役を始めといたしまして委員会メンバーの皆様、卒業式を取りまとめていただき、最終年度総務委員会で改めて青工会大好き!と思わせていただきました。本当にっありがとうございます。
「青工会最高だぜっ!!!!!」
卒業式当日、舞台に立ち中島直前会長・志村副会計の送辞を聞いている時から・・ボロボロ号泣に決まっています。
腹話術(中島直前会長が私の原稿を読み上げ、私は口をパクパクしている)で答辞をしようかと、本気で考えました・・・・・
実際、答辞の事前練習で熱くこみ上げ、何度も一人で泣いていました。
このような形で答辞を伝えさせていただきましたこと、感謝申し上げます。これからも素晴らしい歴史を刻んでゆかれますことを、心からお祈り申し上げこれにて答辞とさせていただきます。
ありがとうございました!!!!!
根津佳明兄
送辞:照山 可純、原田 優子、有井 慎一、前田慎吾
風薫る3月、根津兄さんの門出に相応しい日となりました。ご卒業、おめでとうございます。根津兄さんは、雨宮康順会長のもとで委員長として活動した5人の仲間のリーダー的存在です。委員長という、つらくて楽しい宝物のような時間を共有した仲間です。委員長の辛かったことは、基本的に何もかも思い通りにならないことです。委員長の楽しかったことは、その困難的な状況を仲間とともに乗り越えたことです。この経験を通じて我々は山梨青年工業会の醍醐味である自己研鑽をすることができたと思っています。そしてそこには常に根津兄さんのにこやかな顔がありました。
根津兄さんのにこやかさは、至る所に見られました。
平成29年の12月例会では一緒にロールケーキを作ったり、ゲームをやったりしました。その時の根津兄さんは「ずっとニコニコしながらずっと話しかけてきて、妙に馴れ馴れしい人だな、なんだかちょっと気持ち悪いなぁ」という印象です。その時は分かりませんでしたが、それは根津兄さんの私への気遣いであり、思いやりだったということを暫く時が過ぎてから分かりました。それが分かるまでは“ちょっと気持ち悪い人だなぁ”と暫く思っていました。(照山可純談)
恒例の執行部終わりの反省会では、私がものづくり委員会の委員長の時、執行部で嫌な思いをした時も、有井さんの言っている事は決して間違っていない!執行部の連中は私のお祈りで地獄に落としてやるとにこにこしながら言ってくれました。(有井慎一談)
根津兄さんには人の心を穏やかにする深い優しさがありました。(原田優子談)
根津兄さんがいたからこそある、今の我々、委員長会です。
だから根津兄さんが卒業されてしまうのはとても寂しいです。
お酒×卒業で、この寂しさを乗り越える教えをグーグル先生に乞うたところ、こんな五言絶句を授かりました。
「勧酒」于武陵
勧君金屈卮
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
〈井伏鱒二の訳〉
この杯を受けてくれ
どうぞ、なみなみとつがせてくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
私は、この詩には、別れの寂しさだけではなく、この瞬間を全力で生きようという挑戦者の気概を感じます。
根津兄さんと一緒に過ごしたあの瞬間も、この瞬間も、そしてこれからの杯も、まさにこの詩の通りです。これからも、我々とお酒とともに、「生涯挑戦者」としてご活躍されることを祈念します!
令和2年3月14日
大日本国旗の会(仮)
照山可純、原田優子、有井慎一、前田晋吾
(文責)前田晋吾
思い起こせば平成28年3月。原会長率いる平成27年度第18回役員会へと足を運んだ。私を誘ってくれた藤本恭司先輩が副会長で、会長の隣で私を紹介してくれたのを覚えている。私とは畑違いな「ものづくり」の会で何処まで打ち解けてやっていけるのだろうか。仲良く自己研鑽できるであろうか。いろいろな不安の中での入会審査であった。
私は稲積神社の神主。平成26年9月に「稲積神社外郭団体 常若会」を10個目の外郭団体として設立したのが「青工会」への第一歩と言っても過言ではないだろう。それは何故かというと、常若会会長は青工会第29代会長の井上重良さん。メンバーには青工会の会長経験者や重鎮が顔を揃え、ことある毎に青工会へと誘われていたのだ。まだその当時は山梨県神道青年会の副会長・創立65周年実行委員長として忙しくしていた為、入会の時期を調整してもらった記憶がある。そんなこんなで平成28年度4月例会 向山会長の一発目の例会で入会式をさせて戴いた。
思い出はたくさんある。その中でも平成29年度雨宮会長期に総務委員長を拝命したのがもっとも濃厚な1年半だった。当時の大木副会長より「総務委員会はやってあたりまえ!やってやっと0になる!」の言葉を胸にがむしゃらに前に進んだ。もちろん側には山寺担当、平島副委員長、礒部副委員長が常にいてくれた。とても心強かった。心配がやる気になり、やる気が自信になり、人のことを考えて行動し、時間の有効活用が出来るようになった。47会(仮)の先輩方にもとても仲良くしてもらった。委員長という仲間も出来た。つらくて楽しい時間を共有できたことは一生の宝物だ。
そして今年度、卒業のラストイヤー。平成31年度 令和元年度 山寺会長は「監事」の声をかけてくれた。とても嬉しかった。自分が見合っているか見合っていないかではなく、受けたい。思いに答えたい。その一心で受けさせて戴いた。委員長の頃とはまた違う思いで勉強をさせて戴いた。私にとって「青工会」は大人の学校。学ぶ意欲があれば人は成長できる。思いやりの気持ちがあれば人は紳士になれる。大切な人がいれば守ることが出来る。愛する気持ちがあれば正直になり何でも出来る。これからも「青工会」で培った色々な物を大切に「生涯挑戦者」として歩んでまいります。これからも宜しくお願いします。
風間栄一兄
寒さも和らぎ、うららかな春の香りを感じるようになりました。
風間兄、本日はこの山梨青年工業会からのご卒業、誠におめでとうございます。
私がこの会に入会してからずっと親しくお付き合いを頂いた風間兄、委員会活動でもプライベートでもいつも傍にいてくれたという思いがあります。
兄貴のような身近な存在でいつも若々しく同年代の先輩のようでいつまでも一緒に活動してくれるような感覚でしたが、本日でこの会を卒業してしまう現実があり本当に寂しく感じます。風間兄のこの会での活躍の一部をふりかえります。
平成18年2月、本日共にご卒業される長田兄と共に入会、平成22年度と同25年度には総務委員会の副委員長をされ、約15年間この会を支えてくださいました。
その中で8年間ほど同じ委員会でした。毎年12月には「次年度はどこに行くでぇ~」という毎年恒例の配属希望ミーティングを行い、ここ最近はずっと一緒でしたね。
風間兄の印象は中々出てきてくれないけどお願いした仕事はきっちりとこなしてくれる頼りがいのある先輩でした。
そういえば風間兄は2回の寸劇動画に御出演された名俳優の一面もありましたね。
1回目は青工会活動を会員家族に紹介する短編映画の主役、たしか父が危篤で山梨に里帰りして家業を継ぐ中で様々な困難があり、青工会を通じ成長していくって話でしたね。
今振り返ると風間兄、いきいきとしていましたね。
2回目は例会の動員用動画でしたね。たしか入金に行く社長を後ろから襲い現金を奪って自転車で逃走する役でしたね。無職の。たくさんの証拠があるにもかかわらず「僕はやっていない」と叫ぶ迫真の演技には唖然としました。
今振り返ると笑えますね。役作りご苦労様でした。
一緒に活動してきた期間に風間兄の大きな転機となる時期もありましたよね。
平成28年いまから4年前の後半、風間兄の務める株式会社クリエイトパートナーズの当時社長である木口様を亡くし不安な時期をお過ごしになった時もありましたね。風間兄はその苦しい時期を乗り越え、クリエイトパートナーズ社長職を引き継ぎ新たなる活躍の場を自ら見出しました。当時は仕事量も倍増し、更には甲府ライオンズクラブや甲府ロータリークラブと様々な会合も引き継ぎ、家に帰る間もないほど慌ただしい時期があったとおききしました。
もしかすると最近入った会員は在籍中の風間兄の活躍を身近で感じる事もなく、委員会では遅刻や早退の多いちょっと不思議な先輩と感じている会員もいると思いますが、風間兄は頼りがいがあって、信頼できて、人との繋がりを一番大切にする温かい先輩であることを是非知ってもらいたいです。
しかし、いい加減すぎる一面もあります。
4年間在籍した青工会フットサル部、最初の練習会に遅刻参加したもののそこからの参加は無いし、毎回電話するといつでも行けるように道具だけは準備していると・・・
4年間準備だけありがとうございました。
一回来た試合で使ったビブスは無くし・・・
絶対に返してっていいましたよね?
仕事サボってサッカー観戦に行ったり・・・
また行きましょうね。青工会でもプライベートでも本当にお世話になりました。
サッカーの話、青工会の話、保険の更新の話、これからも変わらずにお付き合いください。
人として温かみのある風間兄と一緒にいるととても落ち着けます。
青工会を卒業し、新たなる一歩を歩みだす風間兄のご健康とご活躍を祈念して送辞とさせて頂きます。
平成17年度2月に入会、翌月の3月例会卒業式・懇親会にて入会式を行っていただき私の青工会活動がスタートしました。振り返るとあっという間の15年間でした。小学校入学から大学卒業までとほぼ同じ期間在籍していた事にあらためて驚いています。
入会後間もない8月の富士山頂上例会、今ではアウトな19時から出発し翌朝にかけての弾丸登山。親睦と連携は深まった。富士山の清掃活動も目的の一つであったが、それどころではなかった。この年の10月は35周年記念式典。感動した。翌年の8月は、また弾丸ツアー「営業と感動のサービス体験」早朝から深夜までの東京ディズニーランドでの体験研修例会。暑くて疲れたけどウォルトの凄さを学べた。来年は何処に行くのだろうと期待していると6月「苦楽を共にし、強まる絆」朝5時30分集合といういきなりの苦行からの比叡山延暦寺宿坊での例会。禁酒・禁煙・座禅・清掃・写経、一番きつかったのは食事。音を立てて食べると指導員の坊さんから「音を立てるな!!!」と一喝。怖かった。怠けていた日常から久しぶりの緊張感が得られた。絆はかなり強まった。さらに比叡山を降りた直後の煙草は美味かった。翌年の宿泊例会は行けなかった。平成22年度は、6月に日本の偉大な2人の経営者、松下幸之助・安藤百福の思いを感じに大阪へ行った。あらためて経営理念の重要さを学んだ。年が明けた平成23年3月11日、東日本大震災が発生した。担当委員会の総務委員会副委員長として、3人の兄の卒業式に向けて準備してきた内容も縮小せざるを得ない中で8日後の3月19日に卒業式を行った。当時は、事前に準備してきたものを全て出し切れない事への悔しさと悲しさなどの感情が湧いた。でも、余震が起こり縮小された卒業式でも卒業生から「ありがとう」と言われた時はうれしかった。4月になり全国的に自粛ムード漂うなか40周年度がはじまった。6月には「継承」を学びに、伊勢神宮・式年遷宮を体感しに三重県への宿泊例会。千と千尋の神隠しに出てきそうなプライベートでは絶対に予約しない宿と見かけ倒しの『伝説カレー』が忘れられません。9月には台風が来ているにもかかわらず中銀スタジアムのトイレを手で磨きました。翌10月には40周年記念式典。ここらで青工会活動の折り返し地点の7年目終了。後半戦の2012年度では10月に甲府大好き祭りに参加して青工会アピール大作戦を行った。みんなで踊りにくいスーツ姿で甲府の中心街を踊り歩き楽しかった。ヴァンフォーレ甲府もこの年J1に返り咲き更に盛り上がった。翌年は、模擬裁判の例会で被告人になり無罪を訴えた。2015年4月には消費税が5%から8%になり、6月頃からはそばの種をまき収穫して、自動石臼作ってそば打ち体験をした。いろいろ学んでいるうちに45周年を迎え、たくさんの素敵な出会いがあったと同時にきつい別れも経験した。2019年10月には消費税が10%になった。
在籍15年と2か月、通算例会数182回。出席データが残る2008年度からの13年間の出席率は(120/156)76.92%であった。後半戦が足を引っ張ってしまった。入会時の自己研鑽しようという初心が徐々に薄れた訳ではない。右も左も分からない、早く会に慣れようと努力して会のために時間を使っていた30代、会に馴れて警戒心がなくなり時間があまり使えなかった40代。我が子にはよく言う、「過去の自分が今をつくり、今の努力が未来の自分を助けるのだよ。」説得力ゼロでした。私自身もいまだに未熟者。最終年度に素敵な言葉をいただきました。~生涯挑戦者~
通称「卒業できないコロナ世代」ではありますが引き続き自己研鑽に励み生涯挑戦し続けて頑張っていきます。
多くの出会いをくれた山梨青年工業会、長い間ありがとうございました。
長田守礼兄
寒くもなかった冬も終わりをむかえ、春の息吹きとコロナウイルスの緊張感を感じる今日の良いのか悪いのかよく分からないこのよき日、ご卒業を迎えられる長田守礼兄に、現役メンバーを代表して、心からお祝いの言葉を申し上げます。長田守礼兄ご卒業おめでとうございます。守礼兄、在籍15年間でどんな成長できましたでしょうか?
兄の青工会ライフの、思い出を紐解いていきましょう。兄は2005年度入会。入会に際し兄はこんなコメントを残していました。
「入会を機に、さまざまな業種の方々との交流を通して自身の成長の糧として行きたい」
とのことでした。
兄とは、橋爪会長率いる2007年度の総務委員会副委員長、僕はものづくり委員会で副委員長でした。
いつの頃からか兄は僕のことを、チャラ男と呼び、僕は兄のことを怒りやすく、ちょっと・・・いやかなりのアニメオタクでよく分からない人だなぁと思っていました。
そんな兄にぴったりな言葉が出来たのは、堀内委員長率いる人間力委員会「人間力」まさに副委員長だった兄にはぴったりの言葉でした。
そして翌年の40周年の時は人間力委員会の委員長、その時も僕とは同期委員長でしたね。
人間力委員会年間スローガン「豊かな心を持った、誰からも愛される人となる」
その言葉の通り兄は豊かな心持ち、誰からも愛される人間へと少しずつ進化をするきっかけとなった1年でした。それから卒業までの8年間、副会長職や副委員長職を歴任され兄の独特の意見、語り口はいつも楽しく見させていただいていました。中でも僕が驚いたのは、兄の深い知識でした。音楽はアニソンしか知らないと思っていたら洋楽、しかもかなり詳しいし、映画もアニメだけでなく洋画とすべてが幅広いジャンルで、めちゃくちゃ詳しい。
僕にはない才能でとても羨ましく思います。やはりMLだと面白おかしくは書けず、僕の実力も本領発揮できませんが、長田守礼兄の面白さ、特異さは会員である皆さんならご存じかと思います。是非これからは、ご自身の趣味、またパートナー探しの時間をしっかりとりこれからの様々な活動を有意義なものへとして行ってください。
これからの益々のご活躍期待し、ご卒業おめでとうございますの言葉へ今までの感謝を込めたいと思います。
「長田守礼兄、ご卒業おめでとうございます」
正直、入会した頃の自分は、余り(全く?)会の活動には積極的ではありませんでした。
入会前にオブザーバーとして参加した例会で受けた印象が、「ナニコレ?いきなり皆で一斉に何か叫び出して(注:活動趣意書の事デスよ)、何かヤバイ団体なんじゃないの?」と思った程でしたから。
そこから約半年後、会の事など忘れていた頃にいきなり役員会に呼ばれ、わけの分からない内に入会審査を経て、会員としての活動が始まりました。
とはいえ、最初にも書いた通り、やる気のない活動を繰り返していたのは事実です。
時には事前連絡もなしに30分遅刻しても悪びれず、時には例会参加をドタキャン。
最悪にも程があるってものです。
よく除名されなかったな、自分…
そんなクズ会員に転機が訪れたのは3年目。総務委員会の副委員長を仰せつかった時からでしょうか。
それまでは、ただ委員会に出て、例会に出ての繰り返しでしたが、役員として一歩踏み込んだ世界に足を踏み入れた事で、毎回の例会がどのようなプロセスを経て承認され開催されるのか、その過程に深く食い込む事を知る事が出来たのは、一つの経験とも言えます。
ちなみに、その時総務委員長だった現宮下シニアからの副委員長打診の電話を3日間放置していた事を、今ここで懺悔させて下さい。
ゴメンネ、純ちゃん。
その後も紆余曲折、色々とありましたが、更なる転機は45周年の副会長を受けた時でした。
なんと、担当したのは今の会長君。しかも2度目の委員長という事もあり、それなりに経験を積んでいる状況。
対して、担当役員など当然初めてな自分が、空回りしまくっていた事は否めません。
しかも前半には、自身が最も嫌悪していた筈の行動を取ってしまい、最悪の展開に。
さすがに反省しました。
しかし後に、この時の経験が、人に物を伝える時には感情的にならずに、出来る限り理性的にものを考え、伝えようとする姿勢に変わる事ができたとも、言えなくはありません。
とはいっても、某M子柴さんが委員長の時は、少し感情的になる時もありましたけどね。
まっ、相手が相手だから、しゃーないか。(笑)
さて、こうして振り返ってみると、15年という月日の中で、色々な出会いや衝突があり、その中で自身も磨かれていったのだな、と改めて思わずにはいられません。
自己研鑽と一言で言えば簡単ですが、本を読む、セミナーに通う、偉い人の話を聞く、色々あると思います。
しかしそれよりも、多くの人と交わり、その過程の中で大なり小なりの影響や刺激を受け、時には自分を客観視して、足りない部分には追加して、足りている部分は更に強くする、そうやって常に自身をアップデートし続けて行く事こそが、最大の研鑽なのだろうなと、今この時に思います。
確かに他に比べれば時間はかかるでしょう。でも、かかった分だけ己の中に蓄積されたものは大きいし、後に残るものも大きいのです。
最後になりますが、15年間本当にありがとう御座いました。
またどこかで会おうね、みんな。